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| ライオン lion‖Panthera leo
シシ (獅子) の別名をもち,〈百獣の王〉と呼ばれ,ネコ科ではトラと並ぶ強大な食肉類)。かつてはバルカン半島,アラビア半島からインド中部までと,アフリカの大部分に分布したが,人間との競合で分布をしだいに狭め,前 100 年ころにはギリシアで滅び,1858 年にアフリカのケープ, 65 年ナタール,91 年アルジェリア,1920 年ころモロッコやイラク, 30 年ころにはイランから姿を消し,現在ではアジアではインド北西部カティアーワール半島のギル森林に一亜種インドライオンP.l.persicaが 180 頭ほど生息するにすぎない。アフリカでもサハラ以南の荒れ地ぎみのサバンナにだけ分布し,生息数は 20 万頭かそれ以下と見積もられている。
寿命は飼育下での平均で 13 年,最高で 30 年近いが,自然では 15 年ほどとみられる。
今泉 忠明(平凡社世界大百科事典) |
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【文化史】
[古代西洋文化とライオン]
ライオンは古くから猟獣として重視され,アッシリアでは常時多数のライオンをおりに入れて飼っておき,猟の際にこれを狩場に放つことが行われていた。アレクサンドリアでは狩猟の女神アルテミスの祭典に,飼い慣らしたライオンやチータに街の中を行進させる儀礼があったという。またローマのアントニウスは,これを訓練し二輪戦車を引かせるようにしたとされる。この時期には北アフリカやシリアなど文明地域のごく近辺に多数のライオンが生息していて,サーカス用動物として盛んに捕獲もされている。さらに大プリニウスの《博物誌》には,前 1 世紀にライオンの群れと人間を闘わせる見世物がローマで始まったとの記述が見える。将軍スラは雄 100 頭,カエサルは雌雄 400 頭のライオンを闘技場に放して剣闘士 (グラディアトル) と闘わせている。当時はライオンの頭に外套 (がいとう) をかぶせれば簡単にこれをとらえることができると信じられていたらしく,ちょうど闘牛のように外套 1 枚でライオンと対決する競技も行われた。
古代地中海文化圏での人とライオンの関係はこのように緊密で,たとえば《イソップ物語》にもその一端がうかがえる。猟師の網にかかったライオンが,むかし食べずに逃がしてやったことのあるネズミに助けられる話は, 〈事情が変われば強者も弱者に救われる〉との教訓を説いて有名である。またいっしょに旅をした人とライオンの話もおもしろい。人に絞め殺されるライオンの姿を刻んだ彫刻を見て, 〈人間は君より強い〉と人が自慢すると,ライオンは〈もしわれわれに彫刻がつくれたら,ライオンの足に踏まれている多くの人を見るだろう〉と答えたという。これらの物語にはライオン狩りの具体的な方法が述べられており興味ぶかい。さらにライオンは文様にもとり入れられ,東アジアに広く伝播したため,日本のように直接これを産しない地域にまでその形姿や象徴的意味が浸透した |
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[象徴と伝承]
獣類中もっとも勇敢でもっとも高貴な性質をもつとされるライオンを〈百獣の王〉とする伝統は古い。エジプトでは太陽または夏の象徴,ギリシア・ローマでは人間を除く動物のうち唯一慈悲心をもち,女や子どもを襲わない高潔な猛獣と考えられた。また,アッシリアの各王朝では国王がみずから狩る獲物であった。強大なその力は目に集中しているといわれ,したがってライオンは眠るときにも目を閉じないと信じられた。この特性により,ライオンは見張番の象徴となり,家の門や扉に彫刻が飾られるようになった。大プリニウスは《博物誌》で,ライオンを従順にさせるには目をふさげばよいと述べている。またライオンの子は生まれ出てのち 3 日間を仮死状態で過ごし,やがて両親のほえ声で目をさます。これをキリスト復活の故事になぞらえ,ライオンをキリストの聖獣とみなす伝統も中世には形成された。この獣は出歩くとき尾先の房で地を掃きながら進むので足跡を残さないともいわれる。 中世のベスティアリ (動物寓意譚) にはライオンに関する擬似自然誌が多数語られている。たとえば出産については,腹の子が子宮をつめで裂いて出てくるため母親の負担が大きく,めったに子を生まないとする。深傷を負ったときはサルを食って傷をいやし,つねに山の頂上にすんで下界を見据えており,その目でにらみつけられた獲物はすくんで動けなくなる。したがってライオンの目を携帯する人間は戦いに勝つといわれ,またその皮をかぶるかその脂を体に塗れば,毒虫や武器をはね返せると信じられた。しかしライオンにも弱点があり,ニワトリのとさかと戦車の車輪の前ではおびえて逃走する。これは中近東産のライオンを絶滅に追いやった戦車によるライオン狩りに由来する俗信であろう。また牛あるいはユニコーン (一角獣) を相手に激しく闘うといわれる。ドラゴン (竜) とも敵どうしで,両者が戦えば相打ちになる。 古代エジプトでは,太陽がしし座にはいる 8 月にナイル川の増水が始まるため,泉や水源にライオンの頭を模した彫刻を飾った。この風習がギリシア・ローマに伝わり,口から水を吐くライオンの意匠が浴場などに使われるようになった。こうして太陽と関連づけられたライオンは,エジプトでは人面でライオンの体をもつスフィンクス,アッシリアでは有翼のライオンとして神格化され,いずれも力と知恵の象徴となった。これらの神格化はキリスト教にとり入れられてダニエルのテトラモルフtetramorph (《ダニエル書》7 章参照) のような表象に用いられた。 中世になるとライオンはキリスト自身の象徴とされるようにもなる。なぜならキリストは,しっぽで足跡を消すライオンのように神性を消して人間となり,慈悲に対してはつねに目をふさがず,ライオンの子のように 3 日目に復活したからだとされる。また騎士たちが冑にこの獣を彫り込んだのは,たとえ戦死しても魂だけはキリストに救済されることを願ったからだといわれる。しかし半面,イングランドやスコットランドの獅子章はライオンのたけだけしさと強さを象徴したものである。それによりイギリス自体を戯画化する際にも王冠をかぶったライオンの姿が用いられる。聖人の図像ではヒエロニムスとともにしばしばライオンが従順な下僕として描かれる。これは修道院にはいりこんだライオンをこの聖人がもてなし,とげを抜いてやったという伝説に由来するものである。 錬金術の象徴体系では赤いライオンは硫黄を表す。また緑のライオンは混沌段階の原物質を表し,太陽を飲みこむ緑色のライオンという形で寓意化されている。これは原物質が〈賢者の石〉に触れて変成を開始する意味だという。しかし,この寓意はライオンが太陽を吐きだすところとも解釈でき,エリクシル (錬金薬液) の精製過程を示すとする見解もある。これに関連し 2 頭のライオンがともに描かれれば水銀の二重性を表す表象となり,ここから水星とも関連づけられたりする。一方,占星術では,エジプトでの象徴に従って獅子宮が 8 月と夏を象徴し, 〈地下の太陽〉と形容される。ライオンがイノシシ (冬) やユニコーン (春) を狩る図像は,いずれも夏の到来を示したものである。また正面を向いたライオンの顔 (獅子頭) は火炎に取り巻かれた太陽の表象として図像化されている。これはさらにミトラス教の時の神アイオン Aiヾn,エジプトで用いられた背中あわせのライオンの意匠などにもかかわり,時の経過 (日の出,日の入り) を表した。しかし他方,キュベレの乗る二輪戦車を引く獣,イシュタルの聖獣としては,太陽の授精力や豊饒性を表現する。また〈地下の太陽〉 (地霊) との連想からしばしば月とも関連づけられることもある。一方,その狂暴性を強調させた表象も多い。たとえばペルシアやインドの美術では月と太陽,またはヒツジとライオンを対 (つい) にして前者が楽園や平和を表す。ここでは狂暴なライオンは死の象徴であり,エジプトのセクメトやカルデアのネルガルといった死をもたらす悪神の持物であった伝統を継いでいる。この獣の象徴的意味がいかに複雑であるかを物語る実例といえよう。
荒俣 宏(平凡社世界大百科事典)
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| 獅子 しし
日本ではライオンと同義に用いる。中国の《漢書》西域伝では,西域伝来の動物とし,後世の注釈者は,中国の虎豹をも食うという支麑 (さんげい) (猊) にあてている。 獅子 (ライオン) は百獣の王といわれ,その威厳ある姿は古くから動物闘争文 (アニマル・スタイル) や狩猟文などに好んで用いられた。ウル第 1 王朝期以降の遺物にみられる動物闘争文には牛にかみつく獅子文があり,その文様は後にペルシアのペルセポリスの浮彫にも用いられている。 狩猟文としてはアッシリアのニムルド王宮の壁面彫刻にすでにあらわれ,特に馬上から騎士が身を翻して獅子を射る姿をあらわした獅子狩文はアッシリアよりペルシアまで銀皿などにさかんに用いられている。 獅子狩文では獅子は必ず前足を上げて立ち上がり,尾をぴんと上げ口を開けて咆哮している。中国からその形象が伝来した日本においても,法隆寺の〈獅子狩文錦〉にはこれとほぼ同形の獅子がみえ,また正倉院の〈花樹獅子人物文白橡 (つるばみ) 綾〉の中央の花樹の左右に対置する獅子もこれと同じ姿勢をとる。他にも正倉院の〈紫地獅子奏楽文錦〉の獅子奏楽文をはじめ, 獅子遣い文,獅子頭文,獅子丸文,獅子の丸蛮絵などがある。
松平 美和子(平凡社世界大百科事典) |
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[唐獅子]
獅子 (ライオン) を〈猪 (しし) 〉〈鹿 (しし‖かのあし) 〉などと区別して唐獅子と呼ぶこともあったが,中国伝来の幻想動物としての〈唐獅子〉は,頭側部両側や頸部,尾を火索状に渦巻く多量の毛で覆い,胴体,四肢に数個の文様を散らした特異な形状容姿で伝わっている。こうした概念や形状を最初に日本にもたらしたのは 9 世紀渡来の密教両界曼荼羅図であると考えられる。すなわち空海の帰朝 (806) や円仁の帰朝 (847) 時にもたらされた胎蔵界曼荼羅には十二天宮の一, 獅子宮に〈獅子〉図があったほか,円仁の持ち帰った曼荼羅図には大日如来の禽獣座 (乗物) として唐獅子の姿がはっきり描かれていた。このころから急速に発達した日本の密教美術は,諸如来,諸菩醍とともに,この仏法護持の神獣〈唐獅子〉を図像的に確実に定着させていった。
平安時代,仏教が国教化し,神仏が習合される思想の中で,清涼殿の天子玉座の帳台御前の左右に〈獅子形〉 (唐獅子木像または鋳像) を配する慣例が成立した。大日如来の垂迹神,天照大神の神子たる天皇の神格を〈王法即仏法〉の考え方によって権威づける儀礼であった (《江家次第》)。この段階では,唐獅子は仏法のみならず,邪悪なものを退け,国家鎮護を祈念する形代として呪術的な機能が賦与されていたわけで,これを〈ししこまいぬ (狛犬) 〉とも呼んだ。仏寺や神社の門前の左右に狛犬を配する風習も,これにかかわりがあろう。古い狛犬に比べて平安時代末期以降の狛犬は,極端に唐獅子の形状に近づいてゆくからである。この時期の独立した唐獅子のイメージは,伝鳥羽僧正の《鳥獣戯画》 (12 世紀末ころ) で見ることができる。一方,平安時代中期の興福寺供養において〈獅子舞〉が行われており, 〈獅子頭 (ししがしら) 〉と呼ばれる獅子舞芸能が田楽や猿楽と並んで民間に行われるのはこのころと考えられる。グロテスクだが勇猛である唐獅子の威容をかりて,邪悪なものを除祓する呪術的な芸能であったと思われ,それは中・近世の間,断続しつつ,今日の民間芸能の〈獅子舞〉に至っている。 中世になると,唐獅子はその勇猛な形状容姿がことのほか武人に愛され,旗印や兜の飾りになることが多かった。謡曲《石橋 (しやつきよう) 》等によって,百獣の王としての獅子が牡丹 (ぼたん)の華麗な花姿と対応され,美化されていったこととも関係があろう。室町時代や安土桃山時代には,唐獅子の形状容姿は,城郭建築の中の朕絵や潅風絵などの画題となり,狩野永徳の《唐獅子図》 (御物) などの傑作も生まれた。江戸時代に入っても武家の唐獅子図像の愛好は引き続いた。たとえば日光東照宮の絢爛 (けんらん) たる装飾彫刻の中で多用されたのは唐獅子と牡丹の図柄である。しかし,江戸時代後期になると,唐獅子の神威ある王者の守護獣といった性格はうすれてゆき,ひたすらに怒りたける勇壮なる野獣性の象徴に転じていった。ことに浮世絵の発達にともなう刺青の流行につれて,鳶 (とび) の者,火消,勇み肌職人,惟客らは, 《水滸伝》の豪傑らのほかに唐獅子牡丹の文様をからだに刻みこむことがあった。この風俗は近代に入って,おもに博徒や極道者に引きつがれた。 なお,石川県の加賀武家文化の象徴としての唐獅子陶像,沖縄県の琉球文化の象徴としての唐獅子陶像は,それぞれの郷土特産品として著名である。 ⇒
高田 衛(平凡社世界大百科事典)
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| ケルビム Cherubim
旧約聖書に登場する存在で,〈智天使〉と訳される。アダムとイブが追放されたのちの楽園 (エデン) を守った (《創世記》3 : 24)。預言者エゼキエルの幻には,人間,獅子,牡牛,鷲の 4 個の顔と 4 枚の翼をもち,黄金の眼がしるされた自転する 4 個の車輪をもった姿で現れた (《エゼキエル書》10)。また預言者イザヤが幻にみたセラピムSeraphim (熾 (し) 天使) も 6 枚の翼をもち,そのうちの 2 枚で顔を,2 枚で足をおおい,残りの 2 枚で飛びかけつつ神の玉座を守護するものであった (《イザヤ書》6)。人間の姿をして神の使者たる職能をもった他の天使たちとは異なり,稲妻のような閃光を発して飛びかけるこの神秘的な 2 天使は,古代バビロニアの雷の閃光の擬人化に由来するものと考えられている。 ディオニュシウス・アレオパギタに帰せられる著作《天上階序論 De coelesti hierarchia 》は天使の群を 3 群に,そして各群を三つの位の 9 位階に秩序づけ,トマス・アクイナスもそれを継承している。それによれば,セラピムが最高位を占め,ケルビム,トロニThroni (座天使) がこれに続いて第 1 群を構成する。キリスト教美術においては,セラピムもケルビムもともにイザヤの幻想をもとに図像化された。基本的には他の天使たちと同様に人の姿をしているが,セラピムは 6 枚の翼を,ケルビムは 4 枚の翼をもち,そのうちの 2 枚を身体の前面で交差させて頭部と足首のみを見せている。両者の違いは色彩にも現れ,セラピムは火の色である赤,ケルビムは天空の色の青に塗り分けられるのが原則である。ビザンティン美術では特に中期以降,教会の内陣周辺の天井に,神の玉座の周りに守護者として飛びかう両天使が描かれることがある。西欧中世においてもロマネスク美術以降,特に教会入口の外壁面を飾る彫刻にしばしば現れる。 ⇒天使
名取 四郎(平凡社世界大百科事典)
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アニマル・スタイル animal style
前 7 世紀末ごろから約 1000 年間にわたり,ユーラシア内陸部の草原地帯で活動した遊牧騎馬民族が創造し,愛好した動物意匠,動物文様。西はハンガリーから東はモンゴリア,北は南シベリアから南はイラン高原まで,同類のアニマル・スタイルが広くおこなわれ,剣や深(えびら),馬具,帯金具などの器物を飾った。材料には金,銀,エレクトラム,青銅のほか,木やフェルトを用い,なかにはラピスラズリなどの貴石を象嵌したものもある。内陸ユーラシアにおける騎馬民族文化の広域性と斉一性を最もよく示す一方,地域差・時期差も認められる。のちには,ゲルマンやバイキングの動物意匠の成立に大きく作用し,古墳時代以降の日本にも影響を与えた。しかし,彩陶に表現された動物文様や殷・周時代の饕餮 (とうてつ) 文,あるいは日本の縄文土器の蛇形装飾などは,別系統のものと考えるべきであろう。
この意匠の特徴は動物の形を輪郭に重点を置いて表現する点にある。したがって,透し彫風,浮彫風で,平面的な場合が多いが,立体的な表現をとることもある。猛禽類のくちばし,鹿やヤギの角,馬のひづめや前後の脚を折りたたんでうずくまる鹿や羊など,簡潔に様式化し,動物の特徴的な部分や姿態を強調する傾向が強い。最小の空間内に最大の内容を盛りこもうとする意図が著しく,動物の形を環状に丸めたり,一つの動物形のなかに他の多くの動物を入れこんだり,動物相互を組み合わせたりする。その典型が動物闘争意匠ないし動物咬貨意匠と呼ばれるもので,横倒 B 字形や長方形の枠内に複数の動物がからまり合う。 このような意匠の原郷については,シベリア,中央アジア,黒海沿岸地方 (南ロシア),北イラン,古代オリエントなどの諸説がある。最も有力なのは北イラン説で,ウルミエ湖南東で発見されたジビエ遺宝を重視して,この地の文化と接触したスキタイ民族が創出したとする。しかし,ミュケナイ文化には象牙に浮彫された動物闘争意匠があり,ジビエ遺宝にはフェニキア美術の影響も認められ,起源ははるかにさかのぼる可能性も残っている。 主題となる動物や材料には地方差が認められる。普通には鹿やヤギが主要な動物で,黒海沿岸のスキタイや南シベリアではライオン,猪,猛禽が加わるが,モンゴリアでは牛,馬,羊,ラクダなどの家畜が見える。一方,アルタイ山中のパジリク文化では,空想的で怪奇な鳥獣が頻繁に登場する。南ロシアでは金や銀,エレクトラムが主で貴石の象嵌が多いが,モンゴリアでは大部分が青銅である。南シベリアはその中間の混交地域と考えられる。また,年代に応じて写実的なものから様式化したものへ,単純なものから複雑なものへの変化が認められる。スキタイ初期の意匠は概して単純で,中期に複雑化する。一方,南シベリアやアルタイのものは様式化の度合が強い。このような地方的・時代的な変異は,アニマル・スタイルが西から東へと伝播していったことを物語っている。
山本 忠尚(平凡社世界大百科事典)
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染韋(染革) そめかわ
皮革工芸の一種。 韋はウシ,ウマ,シカ,サルなどのかわを柔らかくなめした〈なめしがわ (鞣韋) 〉のことで,トラ,クマ,イノシシなどの毛のある生皮を意味する〈皮〉,毛を取りあぶらを抜いて堅くした〈つくりがわ (理革) 〉を意味する〈革〉とは区別される。染色するには主として〈韋〉を用い,なかでもシカの韋が多く,文様を染めるには,文様を切り抜いた型紙を当てて染料を引く。文様をあらわした染韋を〈絵韋 (革) (えがわ)〉ともいう。色をつけた韋には,ほかに熏韋 (ふすべがわ) があり,これは型紙を当てた韋にスギの葉をふすべて褐色に着彩したものである。日本における遺品としては,正倉院の大刀,胡訊(やなぐい) などの懸 (かけ) に紅紫韋,馬具に花文熏韋が用いられており,東大寺に山水文を精妙に描いた熏韋の箱覆 (はこおおい) がある。中世では染韋はおもに甲冑(かつちゆう) に用いられ,目結 (めゆい),五星,菖蒲,小桜,不動三尊, 獅子牡丹,鴛鴦 (おしどり) などいろいろの文様を出した韋がつくられた。それらの染韋のうち,藍韋,小桜韋などは威毛 (おどしげ) に,五星韋は小縁に,菖蒲韋は化粧板に,絵韋は弦走 (つるばしり),金具所の包韋として使われた。絵韋にはその文様に時代的変化があって,平安時代末から鎌倉時代初めにかけては襷入 (たすきいり) の埴文 (かもん) や獅子円文,鎌倉時代には襷文にかわって獅子牡丹文,菊枝文,不動三尊文などの絵画的文様がおこなわれ,南北朝以降は獅子牡丹文が小型になり形式化した藻獅子の韋が生まれ,また正平 6 年 (1351) の年紀を染めた正平韋などがつくられた。近世には武家や庶民の間で用いられた巾着 (きんちやく),鼻紙袋,煙管 (きせる) 袋の類に染韋が応用され,京都,大坂,姫路でそれらの染韋がつくられたが,明治時代にはいってから東京駒込の小林総斎,小伝馬町の稲塚米吉らの工人によってもつくられるようになった。 ⇒革細工
岡田 譲(平凡社世界大百科事典)
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| 獅子頭 ししがしら 古くは〈師子〉と書くことが多く,伎楽面や行道面の一種と考えられる。 獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で,その起源が,より西方の猛獣であることはいうまでもない。 獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬 (狛犬) の彫刻ともなり,一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で,現存最古例は正倉院の伎楽面中に見ることができる。眼をいからし,耳を立て,鼻孔を開いたすさまじい表情で,一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け,それぞれが動くように工夫されている。なかには両眼も左右に動くものがある。こうした工作は時代がくだるとだんだん退化して,中世以降は舌を下顎といっしょに彫出してしまうものがふえ,耳も固定される。古代の遺品は他に例が少なく,法隆寺の聖霊会所用のものが平安時代の作と考えられている。中世以降は遺品も多く,広島県丹生神社の正安 3 年 (1301) 銘のもの,山口県防府天満宮の正平 10 年 (1355) 修理銘のもの,愛知県真清田神社の文明 3 年 (1471) 銘のものなどは,それぞれの時期を代表するものである。近世以後では,地方の町村や社寺に伝わる各種の獅子舞に用いられる獅子頭がたくさん見られ,それらは多様に変化していることが知られる。東北地方に伝わるいわゆる〈権現さま〉もその一つで,岩手県黒森神社には鎌倉から明治時代にいたる十数頭の遺品が一括してのこっており,その間の変貌を知ることができる。 田辺 三郎助 |
| 狛犬 こまいぬ 神社や仏寺の門前に置かれている獣形の像をいう。その起源はペルシアやインド地方にあるが,日本ではその異形な姿を犬と思い,日本犬とはちがっているので,異国の犬すなわち高麗 (こま) の犬と考えたのである。したがって狛犬と獅子と形を混同したものがあるが,平安時代には明確に区別していた。たとえば清涼殿の御帳前や天皇や皇后の帳帷の鎮子 (ちんず) には獅子と狛犬が置かれ,口を開いたのを獅子として左に置き,口を閉じ頭に 1 角をもつもの (人の邪正をよく知るという紙豸 (かいち)といわれる獣) を狛犬として右に置いた。また当時の舞楽の中にも獅子と狛犬があり,信西の《古楽図》の中にもその形が残されている。しかし後世になると二つは混同され,神社や仏寺の前に守護のために置かれた獅子は,しだいに犬の形にちかづいて〈狛犬〉と呼ばれるようになり,それに反して舞踊の上では獅子の雄壮な形姿が喜ばれてもっぱら獅子舞が広布し,狛犬の舞踊のほうは衰滅してしまった。神社や仏寺の前に狛犬が置かれる理由については諸説が行われているが,インドの仏寺や中国の宮門,陵墓の前などにも獅子などの動物の像をならべる風習がみられる。この風習はまたエジプト,バビロニア,アッシリアなどの自然崇拝に由来するといわれるが,日本の場合もこれらの習俗にならったものであろう。要するに狛犬は元来獅子を表現するものであり,宮中や陵墓,あるいは神社,仏閣などの聖域を守護し,邪悪の出入を禁ずる目的をこめて置かれた鎮獣と考えられる。 ⇒獅子 野間 清六 + 光森 正士 |
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(first updated 2007-03-25)