ウワス杖

神の権力の杖 蛇よけの杖の名残



神や王がしばしば手にしている杖、
この杖の頭の部分にはセト神の顔があらわされることがあり、
神権を象徴する道具のひとつであった。 
特徴的なのは、下の部分が二股になっていることで、
これは、古くからある蛇避けの杖の名残と考えられています。
セトの頭のついた杖

蛇と花っていうのは、根源的象徴ですね〜。 (リビドー関係の18禁方向でもある)
2匹の蛇を持つ女神だが、
エジプトにも蛇を2本持ってシカモたっている女神ガデシュという女神がいて
これも花と蛇をもっている←シリア起源輸入という。





エジプト文字 エジプトもじ ヒエログリフ (聖刻文字) によって代表される古代エジプト文字のこと。 ヒエログリフはシュメールの文字とともに世界最古の文字で,使用の上限は先史時代末期 (前 3200 ころ)。文字の存在がエジプトの政治的・経済的・文化的発展を促進したことはいなめない。 〈聖刻〉の名のごとく石面・木面に刻まれた例が多いが,しっくい壁やパピルスにも書かれた。 象形文字,絵文字ともよばれるように,きわめて具象的であることで有名である。文字形成の素材は人体,人体の各部分,人の動作,動物 (鳥,獣,魚,爬虫類,虫),植物,地形,天体,建造物,祭器,装身具,武器,農器具,道具,容器,食物など万般にわたり,基本的な文字の数は 700 余り。各文字は本来素材そのものを示すもの (表意文字) であったが,早くから音の転用による表音文字の働きをもするようになり,さらには〈頭音 acrophony〉の活用によって 24 個のアルファベットが定められた。これは今日世界で広く用いられている各種アルファベットの遠い祖先である。語の表記法としては,表音文字のみによるものと,表意・表音両種文字の組合せとがあり,後者では表音文字が日本語のふりがなや送りがなのような役割を果たす。同音異義語を区別するために,しばしば語尾に〈決定詞 determinative〉が置かれるが,これは発音とは関係ない。表意文字,表音文字,決定詞の 3 者の関係は流動的で,同じ文字が二つ以上の機能をもつことが少なくない。たとえば兩兩は n という音を示すだけの場合もあり,英語の of,for,to などの意味をもつ前置詞の役目を果たすこともある。行文の書き方には右進行縦書き,左進行縦書き,右→左横書き,左→右横書きの 4 種がある。ヒエログリフは子音のみを表すので,外国語に移された神名,王名,地名や,コプト語からの類推による母音付加 vocalization の研究が進んでいるものの,この文字で綴られた語の発音を完全に復元することは不可能である。それゆえ欧米の学者たちも,たとえば,テーベの市神の名を Amon,Amen,Amun などと綴って,一致を見ない。  ヒエログリフの絵画的性質からして,墓壁や神殿各部などに刻まれたり書かれたりした場合,その美術的・装飾的効果はつねに十分に配慮された (ちなみに今日の日本においても,この文字は模様としてよく用いられる)。またエジプト人は文字の神秘的な力を信じ,生命・安定などを意味する文字の形を陶製・金属製などの護符として用いた。ヒエログリフを漢字の楷書になぞらえるなら,行書にあたるものは〈ヒエラティックhieratic〉で,おもに木棺やパピルスに葦ペンと黒インキ (まれに赤インキ) を用いて書かれ,行文は通常右→左横書きであった。ヒエログリフとヒエラティックとはともに古期・中期・後期 (または新期) エジプト語を記すのに用いられ,前者による碑銘には来世に関する書,神々の賛歌,王・高官の業績録などがあり,後者による文書には宗教書,文学作品,科学書などがある。末期のヒエラティック文書には宗教的なものが多かったので〈神官文字〉の名が生まれた。前 7 世紀ころから〈デモティックdemotic (民衆文字) 〉が現れる。ヒエログリフの草書体ともいうべきもので,行文はおもにパピルスに右→左横書きに記され,内容には宗教的なものや文学的なものもあるが,法律上・商業上の契約に関するものが多い ( 図 )。そこに用いられている言語 (デモティック語) は当時の日常語である。後 3 世紀ころからはコプト文字が用いられた。これはおもにギリシア語アルファベットを母体として作られたもので,十全ではないが母音も表記されている。行文はパピルスに左→右横書きに記され,内容的にはキリスト教関係のものが多い。この文字で記されたコプト語はギリシア語の影響を多分にうけており,上記エジプト諸語からだいぶ変化してきているが,エジプト語であることには変りがなく,エジプト語の伝統はこのコプト語によって近代にまで継承されてきた。それゆえヒエログリフの消滅 (4 世紀),デモティックの消滅 (5 世紀) をもってエジプト語が死語となったとは必ずしもいえないのであるが,ヒエログリフとコプト文字とはあまりにも字面 (じづら) が異なっていたため, キルヒャーなどを例外とすれば,両者の表す言語の同一性が忘却されたことも事実である。  ヒエログリフはいわゆる文字の通念からはずれたものとして,その一つ一つが神秘的・象徴的な意味をもつものと考える風潮が一般的となった。そして,近・現代学者によってヒエログリフが再び文字として認識され,新たに解読されるにいたる契機となったのは,ナポレオンの部下将兵によって発掘されたロゼッタ・ストーンであった。この碑文は上・中・下段にそれぞれヒエログリフ,デモティック,ギリシア文字が刻まれており,ギリシア語部分がまず解読され,他の 2 文も同一の内容をもつという (正しい) 想定のもとに,ヨーロッパの言語学者・東洋学者たちが解読を試みた。彼らによる多くの試行錯誤ののち,イギリスのT.ヤングがヒエログリフ解読への〈軌道〉にのせ,これら先覚者たちの成果をふまえて,フランスのシャンポリオンが真の成功をかちとった。彼の天才的なひらめきを助けたものは,コプト語をはじめとする諸言語の素養,古代エジプト語とコプト語との同一性の確認,エジプト史の深い理解,ロゼッタ・ストーンとフィラエ島出土の碑銘との比較研究などであった。ヒエログリフ解読についての,彼の最初の公式発表は, 1822 年 9 月 29 日パリの学士院におけるものであった。この発表に対する疑惑や反論もないわけではなかったが,ドイツのエジプト学者レプシウスCarl Richard Lepsiusの支持がシャンポリオンの成功を不動のものとした。今日エジプト文字の研究は国際的に広く行われている。 ⇒エジプト語 加藤 一朗
ヒエログリフ hieroglyph 古代エジプトの象形文字。 聖刻文字,神聖文字ともよばれる。きわめて具象的で,1 字 1 字の構成はエジプトの伝統的画法と完全に一致し,木面や石面に入念に彫られたり,壁画と併用された場合,その記録性とともに美的・装飾的効果をも発揮する。生命・安定などを意味する文字は,石製,陶製,金属製などの護符ともされた。前 3100 年ころから 3000 年余の長きにわたり使用され,その後長らく死語 (または死文字) となっていたが, 1822 年フランスのJ.F.シャンポリオンによって解読された。それには単音のもの (24 種),2 音,3 音を含むものがあるが,いずれも子音のみを表しているため,各語の発音の完全な復元は困難である。常時用いられた文字の数は 700 〜 800,その略書体にヒエラティック,デモティックがある。人間の動作,鳥,獣,魚などをそのまま表しているため,今日でも布地や陶磁器などの文様に用いられることが少なくない。 ⇒エジプト文字 加藤 一朗
ピラミッド・テキスト Pyramid texts 古代エジプトの葬礼文書の一つ。故王の復活と永生を助けるため,葬儀や供養の儀式の際に誦された呪文の集成で,古王国末期のピラミッド (第 5 王朝のウナス,第 6 王朝のペピ 1 世,メルエンラー 1 世,ペピ 2 世,第 8 王朝のイビ,およびペピ 2 世の 3 人の王妃のもの) の墓室壁面に刻まれたのでこの名がある。統一されたテキストがあるわけでなく,ピラミッドごとに用いられる呪文に異同がある。現在,ドイツのエジプト学者ゼーテKurt Sethe (1869‐1934) の集成により 759 章が知られている。文字は青色顔料で埋められ,人や動物など故王に危害を及ぼす可能性のある文字は一部分を削除して用いている。文字体系としてはまだ完全ではない古エジプト語で記され,呪文が誦せられる儀式の詳細も不明なため解釈困難な呪文も多い。先史時代にさかのぼるとみられる呪文もあるが,大部分は古王国時代の葬祭慣行を反映している。故王の運命についても統一ある来世観はなく,太陽神のもとへの昇天,星への仲間入り,オシリスへの変容などが混在している。呪文の多くは第 1 中間期の〈葬祭の民主化〉によって一般人にも使用可能となり,中王国時代の〈コフィン・テキスト (棺柩文) 〉,新王国時代の〈死者の書〉に借用されている。 ⇒ピラミッド 屋形 禎亮
オベリスク obelisk 古代エジプトの太陽神の象徴の一つ。ピラミッド形の先端をもつ先細の一本石の角柱で,基台石をもつ。これをギリシア人は obeliskos (〈串〉の意) と呼んだ。もともとはヘリオポリスの太陽神ラーの神殿の聖石ベンベンbenben (天地創造時に原初の大洋上に出現し,太陽神の天地創造の場とされた原初の丘をかたどったもの) に由来し,毎朝太陽の最初の光がその先端に宿るとされた。そのため先端には琥珀金 (こはくきん) (エレクトラム) または銅板が張られていた。本体は大部分がアスワン産の花コウ岩製。第 12 王朝から建立がはじまり,新王国時代には神殿の塔門の前に 1 対ずつ建てられている。最大の例はカルナック神殿のハトシェプスト女王建立のもの (高さ約 30m) である。ヨーロッパ各地に持ち出されている。 屋形 禎亮
ラー Ra 古代エジプトの太陽神。 レーReともいう。第 2 王朝より王名に出現,ヘリオポリスの古い太陽神アトゥムと習合して創造神の地位を得る。とくに第 5 王朝になると,初代 3 王はラーがその神官の妻に生ませた子とされ, 〈ラーの子名〉 (誕生名) が王の公式称号に正式に採用され, 〈上下エジプト王名〉 (即位名) とともにラーのめぐる地を象徴する長楕円形のカルトゥーシュ (王名枠) で囲まれるなど王朝 (国家) の守護神,宇宙創造神,神々の王としての地位を確立する。天地創造時にあるべき宇宙秩序 (マアト) を定め,息子であるファラオにラーの役割を演じさせてこの秩序を維持させるとされた。他の神々もラーと習合してアメン・ラーAmen‐Raなどと称することにより創造神としての地位を主張できた。 アテン信仰の形成にも強い影響を与え,アマルナ時代にも公認された唯一のアテン以外の神である。毎日昼は昼舟で天を,夜は夜舟で天の女神ヌートの胎内または地下の冥界を航行し,翌朝再び東天に復活するとされ,新王国時代の王墓の壁面には《アムドゥアト (冥界にあるもの) の書》をはじめ太陽神の冥界の旅の案内書が挿絵つきで描かれた。一般民衆も好んで墓壁画にラーの舟を取り上げ,これに同乗して復活することを願った。このように創造神にして復活の象徴であるラー信仰は,オシリス信仰とともにエジプト宗教の二大基軸を形成している。図像では日輪を戴く人物またはハヤブサ頭 (のちには雄羊頭も) の人物として表現された。 オベリスクはラーの依代 (よりしろ) で天地創造時の〈原初の丘〉をかたどった聖石ベンベンから発達したもの。ピラミッドの方錐形もおそらくこれに由来する。神殿の特色は露天の祭壇をもつ中庭を中心にもつ点にある。 屋形 禎亮
ハトシェプスト Hatshepsut 古代エジプト第 18 王朝第 5 代の女王。在位,前 1490 ころ‐前 1468 年ころ。古代エジプト史上数少ない女性のファラオである。トトメス 1 世の唯一の嫡出王女で,異母兄弟のトトメス 2 世と結婚し,その王位継承を正当化するが,夫王の早逝後幼年で即位した庶腹のトトメス 3 世の摂政として国政の実権を握り,王は男性という慣例を破って共治王となり,伝統的な王号,王冠,王の付髭 (つけひげ) をそのまま踏襲した。トトメス 1 世以来の征服政策から平和交易外交に転じ,治世第 9 年のプント交易など,とくにアフリカ交易を推進した。国内では建築に力を注ぎ,カルナック神殿の拡張とオベリスク奉納を行い,また寵臣センムトに造営させたディール・アルバフリーの壮大なテラス式葬祭殿などを残した。これらを飾る彫刻浮彫は第 18 王朝芸術の典雅な作風の原型となった。女王の死後トトメス 3 世はただちに征服政策を再開し,また浮彫・碑文から女王の姿や名前を削除し,肖像彫刻を破壊して女王の記憶の抹殺を図った。 屋形 禎亮
エジプト学 エジプトがく Egyptology 古代エジプト文明のすべての分野を研究対象とする学問。歴史学の一分野に属するが,文献学・考古学とは特に密接な関係があり,宗教学・言語学・文学史・美術史・建築史・経済学・文化人類学・自然人類学・医学・生物学・天文学・数学・技術史など,人文・自然科学にまたがるさまざまな部門をも含んでいる。エジプト文明は文献や考古学的資料 (遺跡,遺物) が豊富で多種類にわたるため,文明のはじまりから終末までの発展段階や類型を知ることができ,しかも文明の性格が伝統的・保守的であるため,他文明との影響関係の考察や比較が容易である。エジプト学の意義は主としてこの点にある。対象とする時代は,人類のナイル河畔への出現からエジプト語の終末 (すなわち 641 年のアラブ侵入) までを含むが,エジプト独自の文化が未成立の旧石器時代については先史考古学が,プトレマイオス王国以降は古典学,特にパピルス学,キリスト教化以降はキリスト教神学と関係の深いコプト学が,それぞれ中心となっており,新石器時代 (先王朝時代) からアレクサンドロス大王の征服 (前 332) までのいわゆる王朝時代がエジプト学固有の対象である。先王朝時代は遺跡・遺物に基づく考古学的研究が中心であり,第 1 王朝の成立 (王朝時代の開始) とほとんど同時に文字史料が出現する。文字はいわゆるヒエログリフで,象形文字の原形を忠実に保存した狭義のヒエログリフ (聖刻文字),日常生活に使用されたヒエラティック (神官文字),前 700 年ころ出現するデモティック (民衆文字) の 3 書体があり,聖刻文字は主として記念碑や宗教テキストを金石に刻み,神官文字や民衆文字はパピルスやオストラコン (陶片や石灰岩片) に日常生活の記録類,学習教材,文学作品などを記している。 エジプト語は古エジプト語,中エジプト語,新エジプト語と発展し,民衆文字で記された段階をデモティック語として新エジプト語から区別することもある。なおキリスト教徒がギリシア文字に民衆文字を補って表記したエジプト語の段階 (コプト語,文字はコプト文字) は,前述のように狭義のエジプト学の対象としないのが通常である。  エジプト学の成立は,ナポレオンのエジプト遠征 (1798‐99) を契機とする。遠征に同行した学者たちの調査記録《エジプト誌》全 21 巻 (1809‐28) によって研究の基礎資料が集められ,遠征の際発見されたロゼッタ・ストーンを手がかりに, シャンポリオンによるヒエログリフ解読がなされた (1822)。通常この年をエジプト学成立の年とする。 1831 年コレージュ・ド・フランスにエジプト学の講座が開かれ,シャンポリオンが初代教授に任命された。彼の開いた言語学・文献学的研究はレプシウスC.R.LepsiusをへてエルマンA.Ermanの《エジプト語文法》 (1894) により一応完成する。考古学的資料の収集に不可欠な科学的発掘は, 19 世紀前の宝探しを目的とする発掘の時期をへて, 1880 年にエジプトでの調査を開始したピートリーにはじまる。現在イギリス,フランス,ドイツ,アメリカの各国は現地に研究所を設け,研究の専門分化が進んでいる。 屋形 禎亮
パピルス学 パピルスがく papyrology ギリシア語,ラテン語のパピルス文書を研究領域とする学問。ハードな面としてはパピリ (パピルスの複数形) 現物の復元処理,原本の判読・校訂,校本の公刊といった技術的・専門的な分野を根幹とし,そのうえにパピルス・テキストを駆使しての古典文献学,古代法,主としてプトレマイオス朝およびローマ時代のエジプト史,キリスト教文献学などのソフト面を含む。古典古代の歴史研究の補助学として,金石学と双璧をなす。 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて学問体系として成立したが,その多くをウィルケンUlrich Wilcken (1862‐1944) に負う。  歴史学が依拠するのは文献資料 (すなわち史料) であるが,史料はさらに文学史料 (作品) と非文学史料 (文書) とに分かれる。後者を占めるのは,とくに古典古代の場合,大理石碑文や銅板銘文,陶片 (オストラカ),パピリなどである。通常,前 3 者は金石学に統括されるが,パピリはもちろん,土器片 (オストラカ) でもヘレニズム・ローマ時代のエジプトから出土するものは,金石学でなくパピルス学の範囲に含まれる。数は少ないが,同じ出土の木札や羊皮紙もパピルス学が扱う。その理由としては,刻字やひっかき痕 (スクラッチ,古典期陶片) でなくパピリ同様の墨書きであることもあるが,要はパピルス学の関心が主としてギリシア語エジプトにあることによる。パピルス史料は若干の例外を除き,乾燥地帯の上エジプトにしか残らなかった。それがパピルス学による歴史研究の空間を限定している。他方,エジプト以外の稀有な出土例である南イタリアのエルコラーノ (ヘルクラネウム) の炭化パピリも,ギリシア語テキストゆえパピルス学の範疇に属し,そのほかビザンティン研究がパピルス学者の手によって行われることもある。古代エジプト語の 3 書体やアラム文字,ヘブライ文字,パフラビー文字,コプト文字,アラビア文字などのパピリはパピルス学の範疇ではない。例えばグレコ・ロマン時代のパピルスであってもデモティックならば,それはエジプト学に属する。ラテン語パピルスも数が少ない。したがってパピルス学はほとんどギリシア語パピリが対象だといってよい。刻文と異なって原本のテキストは判読しにくく,行の字数も一定しない。悪筆,走り書き,崩し字のほか略字,符牒化が多く,速記字すらあり,特殊な古文書学を必要とする。  文学パピリは,ビザンティン写本や中世写本で伝承されてきた既存の古典作品の定本校合に大いに寄与したほか,今まで知られなかった新しい諸作品を炭化した塊の中や砂地の中からもたらした (フィロデモスの哲学諸巻,バッキュリデスの詩抄,ヘロンダスやメナンドロスの戯曲,アリストテレス《アテナイ人の国制》など)。福音書の断片や異本,また未知の外典もある。非文学パピリでは,プトレマイオス朝の欠史を埋める数々の行政・経済史料のほか,民衆のなまなましい生活の書付けや手紙類が出土した。ことに著しいのはおびただしい訴訟文書や登記書類で,古代の司法に関してはヘレニズム期エジプトが最も明るい。こうしたパピルス集積の中で群を抜いているのは,前 3 世紀中葉の〈ゼノン文書〉と前 2 世紀の役場書記メンケスの遺箋である。ただし全体としてはローマ時代のものが断然多い。   1930 年代の収集段階でギリシア語パピルスは約 4 万〜 6 万点で,その後も数を加えている。大部分は未刊の状態だが,刊本となったものは収蔵単位の約 150 の集成に登載されている。金石学におけるような統一された集大成はない。金石学に比しパピルス学の困難さは, 1 枚のパピルスが幾片にもちぎられて各地・各国に分売されうることである。したがってパピルス学ほど国際的情報連係が必要な学問はなく,早くから国際パピルス学会がつくられた (1930)。本部はブリュッセルにあり,3 年ごとに持回りで開かれる。パピルス学の専門誌も数点あり,テキストの訂正を総覧する備要も不定期に刊行される。 ⇒金石学 金沢 良樹
金石学 きんせきがく 金属や石など硬質の素材に刻まれた文,すなわち金石文 (碑文) を考察対象とする学問。 碑文学ともいう。金石文はオリエント,ギリシア・ローマ,インド,中国,朝鮮,日本など世界各地に伝存し,それぞれについて研究が進められている。 [ギリシア・ローマ]  ギリシア・ローマの金石文は,量質ともに豊富であるうえ,テキストの収集・校訂・刊行もきわめて盛んであって,古代ギリシア・ローマ史研究のうえで重要な役割を果たしている。ギリシア金石文は,通常,大理石などの石,青銅や鉛といった金属を刻文のための素材とし,それらの板に古代ギリシア語を刻んだものを指すが,石壁・石像,陶器・陶片への刻文をも同時に含む。これらの金石文は,古代ギリシア人が居住し,生活していた全域より出土し,その年代分布も前 8 世紀後半から後 4 世紀末におよぶ。金石文への言及あるいはテキストの収集・公刊は,すでに古代ギリシアの著作家たちによってなされ,近代においてはルネサンス期と啓蒙主義時代にテキストの収集と刊行が行われているが,今日のギリシア金石学の基礎が据えられたのは, 19 世紀の前半,ドイツの古典文献学者A.ベックの指導のもとに組織的なテキストの収集・校訂・刊行が企てられたことによる。その後,考古学の発展につれてギリシア金石文は加速度的にその数を増し,テキストの校訂も精緻の度を加えている。これらの成果はすべて専門誌に公表され, 《インスクリプティオネス・グラエカエInscriptiones Graecae》 (1873‐ ) をはじめとする碑文集に集成されている。ギリシア金石文の内容はすこぶる多岐にわたり,古代ギリシアの政治・法制・経済・社会の実情を知るうえに不可欠の知見を提供する。それらは公文書と私文書とに大別され,前者には法律,条約,財政文書,宗教関係の規定,顕彰決議などが,また後者には墓碑銘,遺言状,抵当標石,奴隷解放文書などが含まれる。 オストラキスモスに用いられた多数の陶片も金石学の対象と目される。  古代のギリシアとローマは,巨視的に眺めれば,同じ世界に属するために,ラテン語で記される古代ローマの金石文も,基本的にはギリシアの場合と共通する点が多い。刻文年代は前 7 世紀末から古代末期にいたるが,帝政初期への集中がかなり著しい。ラテン碑文学は,モムゼンの首唱のもとに 19 世紀ドイツで企てられたラテン語金石文の集成《コルプス・インスクリプティオヌム・ラティナルムCorpus Inscriptionum Latinarum》 (1863‐ ) の刊行によって,その基礎が築かれた。ラテン碑文の場合,刻文形式のうえで目を引くのは,省略記号を頻用することと,文の定型化が著しいことである。内容は,ギリシア碑文と同じく,公・私の文書に大別され,それぞれのなかにまたさまざまな規定や記録が含まれる。それらは古代ローマ人の公・私の生活の全域を覆い,ローマ史研究のための重要な史料をなすが, 《業績録》のような皇帝の功業を詳述する大碑文,ディオクレティアヌス帝の〈最高価格令〉に代表される皇帝の勅令,多様な軍隊関係の文書といったように,ローマ帝国の成立と発展の結果,都市国家の世界であるギリシアでは見られぬ内容のものも,少なからず残されている。 伊藤 貞夫 [中国]  今日では,殷・周時代の青銅器に刻された銘文 (金文) や秦・漢以後の石刻文を研究する学問をいう。旧中国では,印璽 (いんじ),封泥 (ふうでい),瓦当 (がとう),磚 (せん) や鏡鑑,貨幣,刀剣などに刻印された文字や甲骨文なども金石の範疇に入れたが,学問の細分化精密化とともに,現在では,貨幣,印璽,甲骨などの文字は別個に取り扱われる。  鐘鼎彝器 (しようていいき) などと総称される,天地・祖宗の祭祀を中心に用いられた殷・周の青銅器には,銘文のあるものが多い。殷代はまだ銘文も少なく,記号的要素が強いが,西周の青銅器は毛公鼎の 497 字を最大に,長い内容豊かな銘文を備えるようになる。この金文に学問的関心が寄せられるようになったのは宋代からで, 1063 年 (嘉祐 8) の欧陽修の《集古録跋尾(ばつび) 》が最初といえる。彼の友人劉敞 (りゆうしよう) (1008 ?‐69) も《先秦古器図》を著し,科学者沈括 (しんかつ) も古銅器に関心を寄せていた。現存する最古の青銅器図録は 1092 年 (元祐 7) の呂大臨 (1042 ?‐90 ?) の《考古図》で 211 点の古銅器の器形と銘文解釈が試みられている。呂大臨より 30 年のち,虐宗皇帝が鋭意収集した青銅器をもとに《宣和博古図》30 巻が作られた。古銅器の名称は,現在でもこれに依拠する部分が多い。南宋初め,薛尚功 (せつしようこう)はこれらをもとに数多くの金文を集めた《歴代鐘鼎彝器款識 (かんし) 法帖》20 巻を著し,本格的金文研究の先駆者となった。  元・明時代,金石文の研究は一時下火となったが,清代,考証学の興隆とともに再び活発化した。 1755 年 (乾隆 20),乾隆帝は虐宗にならって図録集《西清古鑑》40 巻を勅斤して気運を盛り上げ, 1804 年 (嘉慶 9),阮元 (げんげん)が薛尚功を継承して《積古斎鐘鼎彝器款識》10 巻を刊行した。この書は,こののち器形からひとまず離れ銘文だけを研究する清朝金文学,文字学に大きな影響を与えた。 19 世紀の後半になると金文学も多岐に分かれる。江南では蘇州の潘祖蔭 (はんそいん) とその弟子呉大澂 (ごだいちよう)や,瑞安の孫詒譲 (そんいじよう) が著名で,呉大澂の《説文古籀補 (せつもんこちゆうほ) 》14 巻は,金石文と《説文 (せつもん) (説文解字) 》を対照し,金文解読の正しい出発点を作ったものとして, 《窮斎 (かくさい) 集古録》26 冊とともに不朽の業績とされる。また山東の陳介祺 (ちんかいき) や呉式芬 (ごしきふん) も青銅器の収集,鑑識と金文解読に卓越していた。民国に入り,王国維が出ると,金文研究は飛躍的に前進する。器形と金文書体への新しい解釈,他の文献史料との有機的結合によって,金文を使った古代史研究に新しい時代が画された。王国維に材料を提供したのは羅振玉で,金石資料の収集と刊行にも大きく貢献した。  民国時代の殷墟をはじめとした各地での青銅器発見,新中国成立以後の発掘調査のめざましい進展によって金文資料は著しく増加した。王国維からあとの金文学は,《両周金文辞大系》ほか多数の著作を残した郭沫若, 《商周彝器通考》で知られる容庚 (ようこう)らによって継承されている。また日本でも貝塚茂樹,白川静らの金文学者が優れた業績を生み出した。ただ中国では郭沫若を中心に,唯物史観の時代観に立脚した金文解釈が主流を占め,日本の学者の金文理解と意見の相違が少なくない。しかし文献史料の限られる西周史の再構成のために第一資料である金文研究の重要性はきわめて高い。  石刻は,先秦のものといわれる石鼓文,秦の始皇帝の 6 ヵ所の碑石文 (秦刻石) が最も古いが,文章を刻した碑文が普遍化するのは 3 世紀以後である。漢の碑石は上部に穿 (せん) と呼ぶ丸穴をあけるが,しだいにそれがなくなり,上部中央に題額,その下に文章,碑の両側と裏面に題名 (人名) を刻む形式も定まってくる。南北朝時代になると台座 (趺 (ふ) )の上に碑をのせ,華麗な彫刻で飾るようになる。石刻の種類は多いが神道碑,墓誌銘,紀功碑,石経などが中心で,また碑碣のほか磨崖 (まがい) 碑もある。これらを材料に拓本や写真などで文字,歴史,書などを研究するのが石刻研究である。この学問も欧陽修の《集古録跋尾》に始まるがこの書は 10 巻中 9 巻が石刻で占められている。宋の石刻の学は,北宋末の趙明誠《金石録》30 巻,南宋洪当(こうかつ) の《隷釈》27 巻,《隷続》21 巻と続く。金文と同様に研究の次の頂点は清代で, 顧炎武《金石文字記》6 巻,朱彝尊 (しゆいそん)《金石文字跋尾》6 巻がその口火を切った。  石刻研究は,石刻と歴史文献との差異を考証する方向と,文字を書法,芸術作品として扱う方向に大別される。 銭大粂(せんたいきん)《潜研堂金石跋尾》20 巻は前者の, 翁方綱《復初斎文集》は後者の代表的著述である。石刻研究はさらに進み,畢紘(ひつげん),阮元などの大学者により地方別に石刻を編纂することが行われた。また数多い地方志類にも,金石の目 (もく) が立てられ石刻を収載することが通例化した。さらにあらゆる石刻を時代順に網羅,編纂する事業もすすみ,王昶 (おうちよう)の《金石萃編 (すいへん) 》160 巻 (1805) とそれを補った陸増祥の《八瓊室 (はちけいしつ) 金石補正》120 巻ができあがった。このほか全国の石刻の目録として孫星衍 (そんせいえん)の《寰宇 (かんう) 訪碑録》が有名であるほか, 葉昌熾の《語石》10 巻も旧中国の石刻学の精髄をうかがうことができる。これら書物のほとんどは《石刻史料新編》としてまとめられている。女真文字碑,唐蕃会盟碑をはじめとした非漢民族関係の石刻資料や,近世の田土関係の石刻などは,文献の空白をうめる重要な役割を果たしてくれる。 梅原 郁 [日本]  金石文を歴史叙述に用いることは,すでに《日本書紀》において試みられているが, 14 世紀には臨済僧虎関師錬 (こかんしれん) (1278‐1346) が《元亨釈書》 (1322) に, 〈日本国首伝禅記〉断切の残碑を判読して唐僧義空伝に援用し,あわせて欧陽修の《集古録》を紹介している。しかし日本では宋代の金石学は広まらず,江戸時代に入り《大日本史》が編さんされるころにようやく,歴史が考証的に研究されはじめ,那須国造碑など金石文への注意が払われるようになった。その後,元禄時代以降,鐘銘,碑文などの収集が行われ, 松平定信は《集古十種》(1800) を編み,寛政当時の金石・考古資料の集成を試みている。こうした背景のもとに江戸時代後期にいたって,日本の金石学は国学や清朝の考証学の影響下で本格的となった。  国学者狩谷掖斎 (かりやえきさい)(1775‐1835) の《古京遺文》は,実地踏査に基づく精緻な考証によって,金石文研究史上の金字塔とされている。明治以降,西洋的な歴史学の概念から,国史学の補助学としての金石学が注意されるようになったが,実際には国史学,考古学,美術史学の境界領域にあるため,民間の研究者を含めた各方面の研究者によって,個別的に研究が進められてきた。木崎愛吉《大日本金石史》 (1921),藪田嘉一郎《日本上代金石叢考》 (1949),坪井良平《日本古鐘銘集成》 (1972),福山敏男《中国建築と金石文の研究》 (1983) などは,その代表的成果である。近年になって,関係分野の研究者が合同で総合的な調査・研究を行うことも現れてきている。飛鳥資料館《飛鳥・白鳳の在銘金銅仏》 (1976), 《日本古代の墓誌》 (1977) などは,この例である。 東野 治之  ところで従来の研究では,主として拓本や写真にたよって解読を行ってきたが,近年になって,X 線写真,赤外線写真などの活用,あるいは修復技術の向上によってこの方面の研究が大いに進んでいる。埼玉県埼玉稲荷山古墳出土の辛亥銘鉄剣,島根県岡田山古墳1 号墳出土の額田部銘鉄刀,兵庫県箕谷古墳出土の戊辰銘鉄刀など,金石資料のきわめて乏しい 6 世紀以前の銘文の発見は,その成果として注目されている。 ⇒金石文‖金文 町田 章

(first updated 2004/08/22 2004/11/19 2004/ 11/20)


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